バトンをつなぐ感覚
昨日と今日は、息子くんと妻さんは泊まりで親戚の家に泊りに行っている。これはありがたいことに少し、心に余裕ができた。家でもぼんやり、ラジオを聞いたり、作りおいてもらったごはん食べて、風呂入って、ゆったりしている。今も仕事したくねえなあ、とか言ってる。そんな時に、いい文章を読んだ。
認知症について。父が父ではなくなってしまった、という話だ。介護の大変さを感じさせられる一方で、家族の愛、も感じさせられる素敵なストーリーだった。介護の側面は、ここでは一旦置いておいて(おけないけど)、家族のストーリーとして読んだ私は、こんなコメントをつけていた。
父は72歳の5歳児になった
聡明で優しい父が変わってゆく哀しみと同時に、その性質は子供に伝わってゆくのだなと実感した。いい文章。こうやって、姿かたちはなくなっても、自分の魂や生き様は、子供に後世に、残ってゆくものなのかもなあ
2018/05/24 10:45
この認知症になってしまったお父さんの”築き上げてきた人生”は、ちょっとずつだけど、書き手である子供に宿っているように思える。本人は、「私と父は似ている」なんてことは一言も言ってない。だけど、行間や余白から、語り口や文章から、その匂いがする。(まあ、勝手に感じ取って私が盛り上がっているだけかもしれないが。)
こうやって、自分が亡き後にも、親から受け継いだもの、自分が葛藤したもの、それは、言葉にするとチープだが、遺伝子、とでもいうのだろうか。確実に、ほんの少しだけ、紡がれて行って、後世に残されて行くような感覚に陥った。
ひょっとしたら子供達にはいい迷惑かもしれない。私も、親のいい部分も悪い部分も、受け継いでいる苦しさはもちろんある。 すでに息子くんの頭の形は、口も輪郭も私にそっくりである。ごめん。だがしかし、親からすると、純粋に嬉しいなあと思えてしまうのだ。見た目だけではなく、性格だって、きっと人生で苦しむポイントだって同じだ。そう考えると、亡き後は、暗くてジメジメした墓の下に居るんじゃないぜ、受け継いだ子供の身体に宿って居るのだ!
これは幸運にも、親という体験を経て初めて得た感覚なように思える。バトンをつないでいけるというか、もっと恥ずかしくいいうと、地球と繋がれるというか。
と、変な喜びを勝手に得ているのだけれれども、急に「え?ご先祖様って、今俺に宿ってる?」と肩が重くなった。
同時に自分は父として、何を残せるのかな、と思うのだった。
本物志向に育っている息子くん